社会問題に対し自分の意見を持つ「簡単な」3つの方法
今日本で起こっている様々な社会のできごとを正しく認識しているでしょうか
【1回】教養を身につけるためにすべきこと
私は思い立った。教養のある人間になろうと。私はいつも、学がある人、渋い魅力がある人、大人な人、そのような人たちにあこがれてばかりであった。しかし魅力に感じるだけで実際に行動することはなかった。というのも、努力の結果として優れた人間になった人の結果だけに憧れて努力に目を向けていなかったからだ。伝記などでその努力や苦労のあるストーリーを読んでも「自分とは別の次元で関係ない」「努力する才能があったのだろう」と自分とは切り離して考えていた。
そして最近になってようやく、努力した結果すばらしい人間性が生まれること、つまり経験をつまなければ人間性は磨かれないという当たり前のことに気づいた。そしてそれは一朝一夕で得られるものでもないと気づいた。
そこで私が目をつけたものは、日経ビジネスAssocieシリーズ「ビジネスパーソンのための教養大全」である
ビジネスパーソンが知っておくべき「教養」とは何か。ビジネスパーソン1000人調査で判明した「学ぶべき分野」について、専門家が「学びの勘所」を徹底解説します。
即効性のあるビジネススキルも大切ですが、それを十分に生かすには、自分の「幹」がしっかりしていることが大前提。「教養」という栄養素をたっぷり含んだこの1冊で、あなたの「飛躍のための土台」をしっかり固めてください。(日経BP書店 商品詳細から引用 太字は私による)
こちらで紹介されているように、「飛躍のための土台」を固めるために学ぶ分野と、学ぶための方法を掲載しています。これを見て私がやろうと思ったことは「歴史」「経済学」「日本文化」の3つの分野の知識を蓄えるということです。
経済学は思考のフレームワーク、政治の問題に言及するための知識を得るため、
歴史はさまざまな出来事を通して、自分の立ち振る舞い、行動を律するため
日本文化は、文化を知らなければ日本人と名乗る資格がないであろうから
稚拙だし、学ぶ理由もまったく深くない。しかしそれでも私より長く生き、たくさん経験した人が「学ぶべき」というのだからがむしゃらにやってみようと思う。中学の勉強も当時はなんでやっているのかわからなかったが、今になってその大切さに気づいたように、数年後、これを学んだ大切さに気づくことがあるのだろうから。
イルミネーションを設置する企業が多い3つの理由
最近さまざまな建物や、その周辺にイルミネーションを飾っているのを見かけるようになりました。私もカラフルに煌めいているイルミネーションの美しさに魅了される1人です。カップルなどはそのロマンチックな冬を過ごしているのでしょう。1人でそのような場面に出くわしたときは雰囲気に圧倒されますが笑
しかしなぜイルミネーションをするのだろうか。ひとつ設置するにも電気代、設置費用など非常にお金がかかります。個人の家なら、「自分の家がわかりやすい」「単におしゃれだから」などの理由でしょうが、企業が利益を度外視して設置するのはイマイチ納得がいきません。そこで企業がイルミネーションを設置する理由を考えてみました。
1・利用者の話題としてもらい、口コミで利用者を増やす。
ものめずらしいものがあれば見てみたいものが人間の性でしょう。私がグランフラントへ訪れた際にもイルミネーションの写真を携帯で撮っている人を見かけましたし、twitterなどのSNSに載せているのも見かけました。イルミネーションは華やかな分話題にも挙がりやすく「近いので今度見に行こう」と考える人も多くなり、その結果訪問者が増えます。そのような人たちがイルミネーションを見るついでに、周りの建物で買い物をすることで、企業は設置費用以上の利益を得ることが出来ます
2・暗闇を照らし、利用者に遅くまで居てもらう。
冬は暗くなるのが早くなり、日没前に帰ろうと考えるお客も増えます。そこでイルミネーションを施した木や手すりで、暗い通りや階段周辺を照らすことでお洒落に明るくすることが出来ます。そこで少々暗くなっても危険でないため、利用者の時間帯も自然と長くなります。それによって新たに買い物をする機会を増やすことが出来ます。
3・節税対策
上記の2つが成立せず相対的な利益が低下すると考えると、所得が減りますが、その結果所得税も減ります。経営者も所得税をたくさん取られるくらいなら、イルミネーションで利用者を楽しませたいと考えているのかも知れません。
◆まとめ
イルミネーションは、利用者としては楽しめますし、経営者としても上記のようにメリットがあります。もっとさまざまな場所でイルミネーションをしていただきたいなと思います。ただ、その分カップルの利用率も増えますので独り身にはきついかもしれませんね笑
ブログのネタを探すために必要なたった一つの意識
ここ数日は、ブログを書きませんでした。書く気分が出なかったのもありますが、主な理由は、「ブログを書くネタ」がなかったということです。ネットにあふれた情報を包括してそれを発信するというネタを考えても、それは大手サイトがやっていますし、自分がやる理由がないという理由からやりませんでした。
このようにネタ切れ時に悩んでいたときに、こちらの記事を拝見しました。
「おもしろいか?」&「わかりやすいか?」 - Chikirinの日記
こちらの記事では、ブログのネタとなる経験を統一し、おのおののブロガーがその経験を通して学んだこと、伝えたいことを記事に書くという企画についての著者さんの考察を述べている記事です。
この記事を通して、ブログを書くのに大切なのは日常の経験から「学び」を得ないといけない。ということを学びました。
ブログを書くネタは日常に多くあります。しかし同様の経験をしても感じることは人それぞれです。この経験は私の生活に生かせる、この行動はこの点がおかしいなど多種多様な考えがあります。
しかし経験を通しても何も感じない人になってしまってはブログのネタも思いつきません。先ほどのブログの記事であれば、少し高いスーパーに訪れたときにおしゃれな名前の納豆を子供が買っている場面を目撃したというものでした。これを見ても何も考えなければ、何も学びを得ることが出来ません。日々を何も考えずに生きてしまっては、話のネタもなくなってしまいます。
だから「伝えたいことを見つけるぞ」「学びを探すぞ」と血眼になる勢いで色々な行動をしてみるべきです。意識を変えると、コンビニに行くという当たり前の行動ですら、「コンビニの棚はどのように並んでいるんだろう」「今人気の商品は何なのか」など色々見えてくるものが増えてくるでしょう。
◆まとめ
ブログのネタは待っていても見つからない。貪欲に「ネタを見つけてやるぞ」という意識で行動する必要があるだろう。
興味ない分野を学ぶ意義
「こんなこと勉強して何になるんだ」「私がやりたいことはこんなのではない」と思ったことがある人は少なくないはずです。しかし、それは成長の場面を奪ってしまう思考となっています。大切なのは「分野にこだわらない経験を積める」ということでした。
なぜ興味のないことを学ぶことが大切なのかそれは「経験が増える」「特定の分野の考えに固執しなくなる」「発想の転換が行い易くなる」の3点でしょう。
■経験が増える
学ぶということを通して経験を得ることができます。しかしそれを「自分の興味のある分野」以外を学ぶことは、経験の数を増やすことができます。しかし、その分野を絞ってしまうと、自分で経験できる機会を失ってしまいます。つまり興味のない分野を学ぶことによって、様々な経験を得ることができ、成長の機会を増やすことができます。
■特定の分野に固執しなくなる
様々なことを学ぶことで、たくさんの情報を得ることができます。それによって知識や考えに偏りが少なくなります。もし興味のあることのみを知ると、どうしても偏りが出来てしまいます。ある商品の評判を聞くときに、一方では賞賛の嵐、片側では批判の嵐、である際に、片方の意見しか知らないと自分が商品を買う際に、正しい判断をできずに決めてしまうことになります。そのようなことを避けるために様々な分野のことを学び、経験をする必要があります。
■共通項が見つけやすくなる
大体の経験は色んな経験の共通項を見つけるのは簡単ではありません。勉強している時に理由はわからないが突然すべてのピースがつながって理解した、という経験はありませんか。興味がないことでもやっていたおかげで、共通項を見つけることができ、それが「いま興味があること」に役立つこともあります。TVで今日見たことが明日仕事で使う機会が来るかもしれません。
私もその経験が有りました。とある会場の配置変更について説明しなくてはならないから配置図を作成してくれとの指示があり、作成した結果、その方から「うまく作ってくれたな。分かりやすいぞ」と言われた。そのとき意識したのは、「色を使って分割されているところはひと目で分かる。」「使用するものは個数がわかるようにした」というところだ。このような知識は冊子のレイアウトについて学んだことであったが、それが配置図の作成という異なった点で活かされた。学んでいるときは全く関係ないことでもいつか使える時が来ると改めて実感した。
つまり「これ何のために勉強するのか・学ぶのか」と考えるのは、今までの経験の立場から考えているからであって、未来のことを考えると、その疑問を振り払い、無心に取り組むことが大切なのである。
「任されたことしかしないのか」「余計なことをするな」その境界線とは?
ネット上で見る意見にこういうものがある。
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指示されたのでその通りにする
→「任されたことしかしないのか」
指示されたこと以上の仕事をする
→「余計なことをするな」
なぜなのか
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というものだ。その境界線を実感した体験があった。
■問題はそのベクトル
勤務時、私は職場のホームページの文面を変更するようお願いされた。そこで私は、最低限の変更をしたあと、自分なりに「どうするともっと見やすくなるか」を考え、文字のサイズの変更や注釈の作成を行った。つまり自分なりに「指示されたこと以上の仕事」をしてそれで良いものだと思っていた。
しかし後日、その件で指摘を受けた。それは「文字のサイズは変更してはいけない」「()などの記号はすべて全角で行う」ということであった。つまり内部でのルールに反することを無自覚にやってしまったから、結果的に私は「余計なこと」をしてしまったのだ。
●結論
「余計なことをするな」と言われる人は、内部ルールを理解していないなどから生じる努力の方向音痴なのだ。
自分が善意でやったことはベクトルが違えば相手にとっては余計なことである。そして私たちがやる際に、それが余計なことかそうでないのかを判断するためにできることは「内部ルールや方向性を作成前に確認する」ということだろう。
なにをやるにしても、「守らなければならないルールはありますか」「(指示を聞いたあとに)それでは○○の方向性で取り組もうと思います」などと確認を取ることから、はじめていきましょう。
外国人との英語での会話で知ったコミュ力という言葉の認識
コミュ力とはコミュニケーション能力の略で、ほうれんそうがうまくできる、日常の会話を楽しくできる、そんな能力のことを言うのであろう。
ただこの定義は漠然としており、具体的になんだかわからないままいた。しかしあらためてそれを実感する出来事に出会った。
facebookをやっていると、海外の方から友達申請が来た。これもなにかのご縁ということで許可をした。
「まあ単なる数増やしのための申請だろ」と思っていたのだが、相手からまさかのメッセージが!
以下僕と相手のやりとりだ。
相手:何歳ですか?
自分:○○歳ですよ。あなたは?
相手:××歳です。若く見えますか?笑
自分:若いですね!びっくりしました
相手:あなたも若く見えますよ。
このあと、私は返しを何も思いつかず、結局「ありがとうございます。ところでどこ出身ですか」と尋ねた。
これってコミュ力がないと捉えられる出来事ではないか。それは「会話を広げることができない」ということだ。
会話を広げられないというのは二通りあると思う。
1つめは、「無言になってしまう」もうひとつは「質問づくしに終始する」ということだ。それが今回英語で会話するにあたって顕著に現れた。
今回であれば、返事で「海外の人って大人びてるイメージありましたけど若く見える人もいるんですね」と返したいとしても英語で表現できないから「無言になってしまう」。ただ会話を続けたいので「出身地は?」と話題を変える。という具合である。
つまり日常会話において、話題のネタが自分に分からないことだと、自分で表現できないから「無言になってしまう」し、「自分のわかる話題に話を変えてしまう」ということだ。これがコミュ力がないことの原因だと私は認識した。
だから打開策として、「自分が表現できる手段を設ける」(英語という会話の表現方法や、話題の表現ネタなど)と、「話題の切り替えはさりげなく」つまり唐突な話題チェンジは「私はその話興味ありません」というアピールになるので避けるようにする、というのが考えられた。
◆まとめ
改めて英語勉強しようという気になりました。特に文法と単語は、即座に思いつくように勉強しましょう。そして日本語での会話でも、先述の2点に気をつけてコミュ力がないと思われないようにしようと思う。(そういやなんかの本で会話を広げるには、その話に絡めて違う話題を提供するというのがあった。それも使っていこう。)